top of page

大君

 

安徳天皇とその地名の由来

由緒ある「大君」(広辞苑:天皇の尊称、親王及び諸王の尊称)を称するに至ったその歴史、経緯について文献と大君周辺に残る史跡及びその碑文等から明らかにし、「大君」の地名が安徳天皇から賜った由来を紹介します。

1.集落「大美(おおみ)

 久寿元年(1154年)僧浄哲が、兄田中秀干(大君の豪族の祖)を慕って伊予国から来て向猪山(後の南城山・御立山)に先祖菩提のため一宇の薬師堂を造営する。<※注1>

その後、平清盛が太政大臣に就任(1167年)したころ、近江(おおみ)の国から近江屋栄之蒸(商人?)という人物が当地に来て住むようになり、当地が「多海(おうみ)」あるいは「大美(おうみ)」と呼ばれるようになった。当時戸数わずかに6戸であった。<※注2>

大美は、平清盛が隠戸(音戸)の瀬戸を開削するまでは往来の船舶の多くは速瀬(早瀬)の海を通り、或は潮汐の張るを候い客船皆、此の浦(大美)に泊まる、といわれたほどの風待ち、汐待ち港だった。<※注3>

 

2.安徳天皇の大美来航

 平宗盛(清盛の三男)は、寿永4年(1185年)2月、屋島の戦いで敗れ、3月16日、仮の根拠地、塩飽庄から安徳天皇と三種の神器を奉じ、建礼門院、二位の尼(清盛の妻)らを帯同し100隻余の船で平氏の西の拠点彦島を目指して瀬戸内海を西下した。

 安徳天皇の大美来航は寿永4年(1185年)3月18日(陽暦4月21日)であったと推察される。西下する航路の途上には平家の守護神・厳島神社があり、参拝を企図した宗盛は当時の航路から外れ、父清盛の切り開いた音戸の瀬戸を抜け、かっての風待ち・汐待ち港であり、周囲を山で囲まれ、船団が丸ごと隠れ、そして源氏の隙あらば直ちに参拝可能な距離にある波静かな大美の入江に仮伯、停泊した。

この時、8歳の安徳天皇が浜の小島(蹴り小島)を蹴って上陸した。<※注4>

 大美の海部の豪族・田中秀栄が出迎え、近くの小高い丘に建礼門院らのために后城を準備し、薬師堂がある向猪山(後の御立山)の秀栄の屋敷を城として宗盛に献上、貢いだ。この秀栄の精励を喜んだ平宗盛は直ちに籠城して、この城を后城の南方にある故に南城と名付けた。<※注5>

周囲の防備を固め、北方の浜辺には垣や柵を作りこれを垣の浦(現在の柿浦)と呼び、源氏の急迫に備えた。

また、豪族秀栄が安徳天皇のためエビや野菜が入った「もぶりご飯(混ぜご飯)」を献上したところ、これを安徳天皇が「御もぐり」と言って大層喜ばれ、食された。(大君伝承料理「御も」)。<※注6>

迫る源氏に備え、大美の山中に雨・露を凌ぐことができる大岩の近傍に行在所を設け、安徳天皇らが匿れ、籠った。(匿宮、お籠り岩)<※注7>

平宗盛は、豪族・秀栄の忠勤を賞で、安徳天皇に上奏し大美の地名を「大君」と改めるよう命じ、御座船の停泊する入江を王泊と名付けた。<※注8>

 

3.大君における安徳天皇と平氏

 旧暦3月下旬は春爛漫、穏やかな日々が続く。大君に滞在したその一日を安徳天皇は南城(後の御立山)に行幸した。付添いの女官たちは南城の高台から東方を見つめ、福原の御所恋しさに涙した。また、穏やかな一日を安徳天皇は小舟で、二位の尼や建礼門院らと共に対岸の桜花咲き誇る、藤の脇の岬を訪れ、つかの間の春を楽しみ、船の旅の疲れを癒やした。<※注9>

 この間、平宗盛は大君で形勢を窺い、源氏の隙を見て平氏の守護神「厳島神社」の参拝を企図したが、宮島の対岸「地御前」や「大野」はすでに源義経の軍勢に席捲されており、参拝により行在所の警護をおろそかにすることはできないと判断、代わりに部下の平大臣に代参を命じ、平大臣は船で王泊を出て飛渡瀬の瀬戸を通峡し内海(江田島湾)に入った所で病死、参拝はかなわなかった。<※注10>

迫る源氏を背後に感じた平宗盛は、3月22日(陽暦4月25日)、彦島の平知盛に合流すべく安徳天皇を奉じて大君を出立、瀬戸内海をさらに西下した。

 平家物語・福原落は、「かっては10万余騎誇った平氏が今は7千余人、雲横たわる静かな月夜の孤島「能美島」の大美にともずなをといたのである。日にちがたち都はもう遠く離れ、はるばるやってきたと思うが、尽きせぬものは涙である。」と評している。<※注11>

 

4.壇の浦の戦後

 3月24日(陽暦4月27日)、壇の浦にて安徳天皇が8歳で崩御された。壇の浦の悲哀を知った大君住民は、王泊の山中にある一列に並ぶ巨岩が海向かっているのを見て、壇の浦に沈む平氏のように見えることから羅漢石と名付けて、安徳天皇を慰霊している。<※注12>

 安徳天皇が春爛漫の一日を建礼門院や二位の尼らと共に藤の脇で遊んだ先の住民は、安徳天皇没後657年の天保13年(1842年)悲運の天皇を偲び藤の脇に祠・石塔「若宮」を建立した。<※注13>

 安徳天皇を慕う大君住民は、天皇が行幸した南城を「御立山」と呼び、昭和56年(1981年)「平家口碑」を建立して、今でも安徳天皇のご来航と地名「大君」の恩賜を忘れてはいない。

 

 

参考文献

 注1  當浦真言宗南城山薬師坊代々副書略記「薬師堂の由来」(享禄丑2年・1529年)

 注2  安芸国能美島大君村由来抄(昭和50年・1975年)

 注3  能美島志(宝暦13年・1763年)

 注4  安芸国能美島大君村由来抄(昭和50年・1975年)

 注5  佐伯郡誌(大正7年・1918年)

 注6  ふるさとの味百選(昭和57年・1982年)

 注7  安芸国能美島大君村由来抄(昭和50年・1975年)

 注8  風土記の片隅 大柿その7大君(昭和33年・1958年)

 注9  祠「若宮」の石碑(天保13年・1842年)

 注10  石碑「平大臣由来」(昭和58年・1983年)

 注11  新編日本古典文学全集「平家物語」(平成6年・1994年)

 注12  江田島市市勢要覧「島模様」(平成21年・2009年)

 注13  祠「若宮」の石碑(天保13年・1842年)

 

                    会誌「呉水交56号」の特集「瀬戸内海」  熊倉正造 著 より抜粋

bottom of page